割と本気で言語的観点からtwitter投稿を考えてみる

英語のTweetになれちゃってると、日本語のTweetは内容が濃すぎて重い!逆に、日本語のTweetに慣れてしまうと、英語のTweetは軽すぎてつまらないんじゃないかと。多分「Twitter小説」なんかも、日本語のTweet密度だったら可能だけど、英語だとちょっと難しそう。

(中略)

なお、ドイツ語だと、同じことを書くのに英語より余計に文字が必要らしく、ってことは、ドイツ語のTweetは英語よりさらに軽くなってるってことでしょうか。

日本語のTwitterと英語のTwitterは別メディアであることについて@On Off and beyond
http://www.chikawatanabe.com/blog/2009/08/twitter.html

個人的には、「人の数だけtwitterの使い方がある」な考えの持ち主なので、ITコンサル的でちと危険かなと思いつつ、暇なので少し考えてみる。
これで、言語の文化的境界が突破できると面白いかなと。

twitterの使い方のおさらい(超個人的)

まず、その前に個人的なtwitterの使い方のクラスタ

・個人的な妄言やメモをとり続ける(含むブクマ流し)
・大喜利的にネタをかましあい、その中で友情や繋がりをふやす。
・情報を先取りし、いちはやくニュース的に商品やイベントの感想を書く(含むtsudaる

これは2009/8/29の段階での印象なので、秒速的にブームの変わるtwitter情報としては全然役に立たないと思って下さい。
ブクマ流しとtsudaるの間には「ビジネスとして成立するか」のラインがあるのでこういう分け方で。ちなみに「さまざまなめりっと」や「ふぁぼったー」は現状ボーダーライン的存在。
実質、基本的に1番目と2番目の使い方があることだけ頭に入れておいて本題へ。

日本語の情報量と象形的言語の使い方

日本語ってのは、原則的に発音に関するルールがあんまりありません。
てか西洋圏やハングルと違い、東洋圏言語ってのは音声言語よりも記述言語に力を置いた言語体系をもってる感じです。
(ハングルに関しては…だれか韓国知識人研究しろってことで。あの言語は凄く謎)
スピーチよりも、論文的に向いた言語。それが日本語や中国語。
本気に研究すれば、シンボルのルールとかでそうですが、なんか怖い気がするので放置します。

で、140文字の制限。

アメリカのtwitterてのは、思いっきり2番目目的で使われてる傾向があります。
理由は、渡辺さんの言うとおり「英語だと単語に文字喰うから、会話文や短いつぶやき以上の発言ができない」から。

たとえばオイラのテキトーに選んだ発言を英語化しようとすると…

お題のつぶやき
http://twitter.com/not_nagisan/status/3533229060

日本語:ドイツ探索中にアスカ見つけたのでお持ち帰り。(22文字)

英語:Because ASUKA was found while searching for Germany, We made love at home.(84文字)

ドイツ語:Weil ASUKA gefunden wurde, w〓hrend sie nach Deutschland suchten, machten Wir Liebe zu Hause.(92文字)

アスカって何ですか?(写真はイメージです)

オイラの言語能力の限界でドイツ語が怪しいんですが、こんな感じ。
ちなみに翻訳サイトライフハックですが、英語以外の言葉を訳したいときは、まず英語にしてつじつま合わせをしてから翻訳すると本来の言葉に近い形にできるので参考まで。

ラテン語由来の言語なんかだと、ただでさえ単語スペースの存在が必須な上、前置詞とかの存在が文字数を圧迫します。独語とか仏語になると男女名詞の分類がある分さらにややこしい。
その分、日本語はスペースがいらないから多く文章を書けるし、「お持ち帰り」といった曖昧で抽象的な表現ができるのが便利。
英語圏だと、まず「make love」程度の直球が要求される。英語は多人数的に通用しないと困るので、割と表現が鮮明で固定化してる気がします。
(まあ、上品・下品の表現の幅はあるけどね)

「なんか日本語ユーザーの言ってることがわからないんですが、はぴはぴはっぴーって何ですか?」

twitterのブームは秒速(ry 」はおいといて、外国人からすると理解しにくいんだろうなって気はします。
たとえば、秒速で今ブームの「はぴはぴはっぴー」とか、無理して訳すと「lucki,lucki,Lucky!!!!」とかそんな感じか。
まあ、これは唱えたら幸せになりそうなので訳してみたんですが、外国人からすると、「なんてこったい!こいつらクレージーだ!」と思われてもしょうがないコトで盛り上がってる気がします。

いや、いっちまうか。

「こいつら理性ないっすよ!」

オイラ的には「理性なんてないほうが幸せなんだ」派なんで、面白がってみてますが、人によってはついて行けない人もいるとは思います。
てか、自分たちの気分を正確に書こうとすると、アルファブロガーですら「困る」と思うくらい日本人のメンタリティって複雑で表現できない。
「愛と憎の割合が新薬分子式レベルの構成でできてる」といえば数学的にわかってくれるかと思うくらいややこしい。
なんでややこしいかというと、コレを語るのに最低見積もって「ジャンプ漫画30巻程度の物語」が必要なのでめんどくさいたらありゃしない。
どうせ訳がわかんないなら、その場のお祭り気分で定期的にストレスを解消してガスを定期的に抜くか、位の気持ちで1年を暮らす民族なんだ、そんな気がします。

言語的に「濃い」ってのは、そういう曖昧な気分や概念を詰め込む体質なんだよね。
この国の体質が。
これは、2次元メディアの繁栄でもわかるよね。

メディアが違う、のはわかるけど外国の皆さん、どうか見捨てないでね☆(キラッ)

と言い訳なのでした。

性暴力描写にかんするムラムラ

あんまり普段ブクマコメントってしないんですが、どうも頭がまとまらないので、コメントに突っ込みながら書いていく。

id:GEGE GEGE この人に限らないけど、感情に流されすぎ。「なんか恐怖を感じる」「なんか関係あるように思ってしまう」は、感情の垂れ流しによる卑劣な印象操作に過ぎないことを自覚してほしい。やるなとは言わんけど。

まず、性に関すること自体相当感情に左右される問題なんで、「理性的に考えろ」ってのがかなり無理な問題。その辺は、佐藤氏も高橋氏も同じスタンスとおもうんですが。さらにいうと「卑劣」って言われること自体貴方によるこっちの印象を悪くする印象操作になるとおもうんだけどなあ。100文字でその卑劣さを書いてくれてるならいいんですけど、見えないし。
おいらの、「恐怖」「関係有るように思う」に関しては、

陵辱"行為"を愛好する人たちとそれを脅威と感じる人たちがともに暮らす
「レイプレイ」と表現の自由その4 @モジモジ君の日記。みたいな。
(より一部、「""」部分を私の一存により文章加工)
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090613/p1

実は、これなんだよね。コレにつきる。「表現」を愛するんじゃなくて,「行為」を愛する人(これを「愛する」ということも感情的にはいやなんですが)ひとと一緒にいることに脅威を感じるって話。それがid:mojimojiさんの主張するように「表現」によって「行為」のトリガーになるのかどうかは、単純に結びつけていいのかという疑問があるんだけど。そのへん、真面目に考えてるのが、実は、id:y_arim氏くらいしかいないっぽいのがなんだろうな、という感じ。

id:angmar angmar 有村氏のは、カジュアルな流通に乗ったものほど無意識の性差別環境を醸成しやすいという話かと。

その後の記事で、有村さんの「本当に性差別を熟成しやすいのかどうか」みたいな記事を考えて追って読んでるんだけど、読んでる限りむしろ「ガス抜きになりえる」方向に論が向いてる気がします。おそらく最終的には「虚構で遊ぶことによって、性欲望が暴走し実行するとこまでいくかどうか」にかかってくる気がしますが、多分「抑止効果アリ」に向かう気がする。
ただし、良く消費メインの「カジュアルエロ同人好き」オタクがいう「エロゲがないと犯罪おかすかもしれないじゃん」という言い方は知性が足りないし、それこそ規制賛成派の攻撃の餌食になると思いますけど。これだと「エロゲないと性欲望暴走します、犯罪予備軍です」って宣言してるような物ですから。
あと、ちと欠落してると思うのは、一人で悶々としてるのと、内輪の若い男同士でポルノを語り合ってスパイラルがあがるのとどっちが危険かという「陵辱欲望の共有の問題」かと。これはミニマムな環境に依存するし、もう女性と男性の性的境界問題になりそうなので、オイラの方で語るのはやめますが。それは前回の最後にもいってるけどね。
個人的にはどっちかというと、現状後者の方が危険っぽい、という印象です。

id:Midas Midas ↓カジュアル化に原因が。といっても実際は何も述べてない駄弁。春樹に迷惑だから…と一緒。60年代性革命の挫折と純愛運動に流れが似てる。ただし今回はグローバルにきてる。オタク文化とか売り物にしてきたツケ

「60年代性革命の挫折と純愛運動」ってのを知らない世代なんで、簡単に調べたんですけど、この流れに関しては90年代以降の「援助交際という言葉に代表される女性性意識の変容と性産業(実際に行為する産業としての)のカジュアル化」とも微妙に絡みそうだし、それに関しては自分自身の精神的苦痛の体験を帯びて(たぶんコノあたりを語らないとその意味理解してくれない気がする)まで語れる領域に来てないので別の機会に。春樹的文脈もそのときは必要かも知れないけど、彼ほど「1Q84」のあの謎を肯定できないとだけ。
まあ、オタク文化も一枚かんではいるんだろうけど、ね>グローバル化

と、あんまり慣れないことをやってますが、立場的には、

iPhoneの画像拡大操作が「くぱぁ」と表現されてしまうバカバカしさや下品さをこそ肯定したい。

そのうえで再度、リテラシーの問題を強調しておきたい。
オタク界隈におけるエロ表現のカジュアル化とは? @ビジネスから1000000光年
http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090619/1245379415

に近いかと。実はtwitterとかで変態発言で戯れるの好きな人間だし、中身「おっさん女」なんで下品表現とか規制されると、かなり精神的に息苦しいんだよね。本音。まあ、ユーモアの問題もからむんで誤解されるとちと困るが。

ただ、同時に一人の女性でもあるんで、無用に性暴力と隣り合わせの環境を肯定するのは勘弁被りたいのも事実。「おめーみてーなブス興味ねーよ」(以下この手のブクコメ禁止w)と言われても、怖いのは怖い。
これは実は表現とは全く別次元の「性環境的な部分でのアーティテクチャ」の問題が有るんじゃないかと思うんだよね。たとえば、ただで陵辱画像がダウンロードで入手できる環境とか。これはもうすこし社会科学的にもチェック入れてほしいんだよね。本来ならば。
制作側のひとが関わるには、多分苦痛の領域です。

うーん、もう少し考えます。ただ、女性陣にも下ネタのユーモアのわかる人はほしいなあ…と独り言。

陵辱エロゲ販売に関する大きな河というかなんというか

実はエロゲ自体「一回「水月」つーのを当時の友人から薦められてやったけど、プレイするめんどくささが先行しちゃって1エンディングでやめちゃった」な思い入れのない人間なんですが、この辺のやりとり見てて気になってきたので少しだけ。

公に流通するなら、せめてPostal2のようではあるべきでしょう。どうしようもない変態が男も女も動物も見境なく強姦して歩くが、NPCもまた端から異常者で、油断しているとPCも酷い目に遇う、おまけに警察や自警団が襲ってくる、あっはっは、こいつまじ鬼畜、ってかこんなことやらせるおれが鬼畜、うわ、やられてるよ、やられるとHP下がるのな、あ、終ってもまだ下がる、病気貰っちまったよ、あ、撲殺されちゃった、というゲームなら、女性でもげらげら笑いながらプレイできる――有害図書指定は間違いないでしょうが。しかし凌辱ゲームがそういう方向で社会と折り合うことはまずない。それはもっと繊細な、個人的な、絶対に笑いものにされてはならない押し入れの中の支配の夢であることは、私も承知しています。性とは、実に、感じやすく脆く、くすりと笑われるだけで雲散霧消しかねないものですから。
2009/6/17 日記(記録はないが、批評家・佐藤亜紀氏と思われる)
http://tamanoir.air-nifty.com/jours/2009/06/2009617.html

暴力描写なら流通するのはありだが、陵辱描写が公に流通するのは困難だ、なぜなら、性というのは色んな意味で繊細な問題でありそれを簡単にゲーム化なんて有害な人間を生み出すからヤバイよ!ってとこでしょうか。で、いいのかな?
えー、暴力ならオッケーなの?な疑問は個人的にあるけど、これは別の話。

それに対する、エロゲーム作家・高橋直樹氏(id:NaokiTakahashi)の反論。

陵辱エロゲの世界観はチープなものが多いです(純愛エロゲがチープじゃないという意味ではないですが)。
なんか規制派の人たちは、俺達の頭が悪いからそんなチープなものしか生み出せないのだ、とでも思ってそうな気がするんですが、そんなことないから! いくら俺達がアホでも、こんな小学生が考えたような設定、わざとに決まってるから!
敢えてとてもありそうにないチープなものを書いてるんです。莫大な財産やら超能力やら魔法やら無駄に果敢な行動力やらを持つ、出るとこに出ればヒーロー、あるいはダークヒーロー、少なくともそれなりのヴィランたりうる素質のある主人公が、その絶大な力をたかがその辺の女をアレするために使ってしまうくだらなさが、俺の思う陵辱エロゲの醍醐味なんです(リアル犯罪小説みたいのを目指してる作品もあるのかもしれないけど俺の守備範囲からは外れます)。
少なくとも俺は、例えばタランティーノ映画の馬鹿らしさと陵辱エロゲに通じるものを感じて、そこを目指して書いてるつもり。
もちろん、くだらないものを書くことを通してくだらなくないものを描くことだって出来ますね。
2009/6/17 SNEG @NaokiTakahashiの日記
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090618/p1

もともと陵辱描写自体チープで雑多なのは当たり前であり、それを社会に合わせて高尚化とかは無理だよ、そして、それを男は娯楽として楽しんでるんだよ!しょうがないじゃん!そんな印象。
(6/18 22:20 高橋氏より「しょうがない」じゃなくて「チープさに意義があるんだ」とのブクマコメントあり。なるほど、チープそのものに何らかの意義というか、男としてのなにかがあるのか、と解釈。コレでずれてたらごめん)

おいらはこの人のエロゲーム規制に対するいらだちの記事を結構読んでるので、気持ちはわからなくもない。そして、確かに、男のエロ欲望ってのは割と原則的にチープであり、商売としてエロコンテンツは必要なんだ、ってのも理解は出来る。と自分の中では思ってる。
これいうと炎上ものかもしれないけど、「「本人も愉しんでいる」「いやよいやよも好きのうち」というレイプ神話」ももしかして有りなのか、と感じてはいる。決して一般論でないけど、たまにはいそうな、そんな感じ。でも、おいらの意見は基本的に適当なのであんまり本気にされると困る。

でも、時々流れる集団強姦事件(その例:京都教育大のアレ)を見たり、知人の被害報告(詳しくは言わんが聞いていておぞましかった…)を聞いちゃうと、ゲーム見て現実にやっちゃう人いたらどうしよう…な気分になりそう、そういう女性的にアンビバレンツな気分はある。実際、身近な女性は案外「望まないセックス」を恐怖に感じる人が多いです。自分すら含めて。

ただ、有村氏(id:y_arim)がいう「エロゲーよりもさらにカジュアルに流通している凌辱エロ同人誌」が問題といわれちゃうとなんか違う気がする。別にカジュアルだろうとマイナーだろうと、陵辱シーンをエロのおかずとして処理することに別に問題はないし、実際にやっちまうトリガーの犯人捜しはこの手の問題の解決にはあんまりならない気がする。
まあ、ITベンチャー的なプロテクト策として「陵辱ゲー買う人は個人情報(特にGPS機能ある携帯電話情報)を登録して定期的に監視する」とかちらっと思いついたけど、微妙な抑止力にはなるんだろうけど、本質どうなるのかはあんまり変わらない。携帯持ってないって言い張れば逃げ切れますしね。

ただ、現実に犯罪的な陵辱をやっちまう層ってのは、別に知識として陵辱シーンを知ってその興奮を現実化してしまうのではなくて、割と自己中心的なメンタリティを女性に強引に向ける、意外とプリミニティブ性願望な気がするんですよ。個人的には、な。
どっちかというと本当は、特に体育会系男性コミュニティの暴走が結構問題かもしんない。スーパーフリーも件の京都教育大のアレも、「女性を食い物にする」ことを前提とした集団は結構あって、その食い物にされないよう女性は防御する、が一番なのかもしんない。そういう集団ってある種の狂信的な部分があるので、言っても聞かないし。
そういう、強姦に関する犯罪メカニズムを知らないと娯楽の陵辱も嫌う、これもしょうがない話なんですね。

一回、さっきの案を利用して実験で虚構の性暴力ゲームと犯罪の因果関係をしっかり検証してもいいけど、人権的にどうなんだろうな。それができれば、もう少しエロゲ業界も楽になるのかなあ。

すいません、高橋さん。おいらには完全には陵辱ゲームの販売を擁護しきれないみたいです。端切れ悪くて申し訳ないです。

ネガティブ・インターネットーはてブの半分のうち、前半はまともに相手にするなー

(前略)
良いインターネットと悪いインターネットというというと善悪の基準が1つあるみたいで良くないけれど。それは僕の好みだと言ってもらってもかまわないけど。
(中略)
 やる気のある若い人たちが、日本文化の将棋を世界に広げたい。この本(シリコンバレーから将棋を観る)を読んで、こういう日本のすばらしいことを英訳したい、仏訳したいとか、そういうような人たちのエネルギーを集める能力を、ネットというものは持っているんだよね。

 僕はウェブ進化論でそういう可能性について描いた。それを高校生で読んだという人が大学の初年ぐらいになってて、かなり多くの人がそういうことにわくわくした経験があって、日本語圏ではなかなか起きてないねと思っているわけですよ。

(中略)

 日本のサブカルチャー領域でのWeb文化の隆盛は十分に分かっていて、敬意を表しています。だから、今さらそういう事例について議論しても、日本のWeb文化が特に変化したとは思えないんだよね。

 ただ、素晴らしい能力の増幅器たるネットが、サブカルチャー領域以外ではほとんど使わない、“上の人”が隠れて表に出てこない、という日本の現実に対して残念だという思いはあります。そういうところは英語圏との違いがものすごく大きく、僕の目にはそこがクローズアップされて見えてしまうんです。

日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html

この記事ですが日本独自の文化スタイルを反映してて案外面白かったので引用ってことで。

個人的には、ネット文化自体「サブカルチャー領域じゃないか」という疑問があります。
というのもその中でもっとも大きな勢力のオタク文化が、サブの領域を通り越しているんじゃないか、と。wikipadiaではサブカルチャーの対抗のメインカルチャーの定義を「絵画、純文学、クラシック」としてますが、どう考えてもオタク文化の「漫画・アニメ、ラノベ、アニソン・j-pop」に負けてる気がします。つまり、メインがもう古典の古い文化扱いになってるのではないかと。
これがハイカルチャーの敗退というのは視野狭窄、やってるところではきっちりやってるよ、単純にそういう層があんまりネットとコミットしてない、案外そんな物ではないかと思います。
こういうのは、ネットを完全に娯楽として扱い、現実では製造業やその他、「メディア」という概念と関係のある業種で働いてない人はなかなか参入しない、それがいまのネットの現状じゃないかなと。

でも、サブカルチャーとかネットをハイソにしたいとか文化向上計画的側面は別に責める問題じゃない。
それは、単なる文化の一部分であり、それはネット以外でも問題視してる問題なので、ネット技術でフォローする問題じゃない。そんな気がします。
梅田さんの意向を推し進めると、実はおそらくmixiなどのSNSによってほぼ滅んでしまった「個人テキストサイト」のハイカルチャー版(SNSコミュニティだと駄目。なぜなら、それはサロン止まりであり外へのアピールができないから)を構築しないといけないとおもうのです。

が、ハイカルチャー側が、ネットの暗黒面「炎上」に耐えるリスクを負ってまで参入したくない、その気持ちを個人じゃなくて大抵の人間が普通に持つものだということを抜け落ちてる、それが梅田さんの問題だと思います。

実はおいら、前半の文章で「このひと被害者が、加害者にいじめられたトラウマが解消できてない」と思ってて、「日本のネットを「残念」」は変な理論武装だなと思いつつ沈黙してました。

要するにこの考えの底辺にtwitterの炎上事件のトラウマがあるんじゃないか、それでネットに絶望して撤退したい、そんな感じをややこしくいいやがって、みたいな登校拒否の大学生と同じ言い分に思えてしまっていた、という個人的うっとうしさがあって判断保留してたのですが、すこし時間がたって実はネットに関する重い問題を抱えてることを伝えようとしてるか、そんな気がします。

時期は少し前後しますが、文芸評論家の東浩紀氏があるネット住人とのトラブルにより、ネットでの活動をほぼストップしました。

なぜ、ハイカルチャーの住人がトラブルを起こし、ネットから去っていくのか。
「馬鹿」というのはたやすいですが、どう「馬鹿」なのか思考してみたいと思います。

ちょっとしたいらだちと集団心理がはてブを馬鹿にする

――日本のネット空間の「悪いところ」って例えばどういうところでしょう。

 (15秒間沈黙)

――はてブコメントの問題(Twitterで、「はてな取締役であるという立場を離れて言う。はてぶのコメントには、バカなものが本当に多すぎる」などと書き、炎上した件)とか?
画像

 ああ、あれ? うーん、そうですねぇ……。

 こういう話はしにくいんですよ。何でしにくいかというとね、僕はいま、個人としてインタビューを受けているけれど、はてブコメントについて言うとね、「僕は日本語圏ネット空間について発言することを許されていないんだな」と思った。

日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045_2.html

なぜ、見ようによっては被害妄想にも取りかねない発言を、かつて「ネットは新時代を迎えた!」と唱えた人がいってしまうのかすこし考える。
(まあ、インタビュアーもやらしい編集するなあ、とも思いますが)

ここで、彼がかつて「馬鹿」と評していたはてなブックマークの「馬鹿」を分析してみようかと思います。
サンプルとして、上記の梅田さんインタビューのブックマークを出してみます。

http://b.hatena.ne.jp/entry?mode=more&url=http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html

現在(6/718:40時点)でブックマーク1313user。(公開分のみ)
ブックマークの状況をキャプチャーします。

見ての通り、6/3くらいの時点で7〜8割を超えてしまい、あとは皮肉にもロングテール状態になっています。ロングテールってマイナス面でも起こりえるのですね(w
そして、後ろになればなるほど、コメントする人が激減してるということ。さらには、だんだん中立な意見が出てきて、そのうち、おそらく本来的な意味で「ブックマークを使ってる」と思う人がぽつりぽつりとブクマする。
個人的にはこの状態は論理的にむしろバランスが取れている気がします。

でも、初期の発言を見てると、本当に自分のスタンスを否定された気分の反射神経でしか文脈を読み取れてないと思われる「こなれてない発言」のブックマークが多いです。そして、ある程度その空気に影響された人がその発言にボカボカはてなスター(これは沈黙の賛成票と受け取れます)をつけていくとある種の偏った論調ができあがります。
そしてさらに影響されて、一方的な論調で他の人がブログで似たような記事を書き、その空気はネット空間で支配的になる、そういう空間の偏重が生じます。この空気は、中学校のいじめの変な力関係に通じる、もしかして日本のいじめ構造そのもの?かもしれないです。
「集団痴」という皮肉用語がありますが、まさに偏重してる空気ってのは時に思いっきり気持ち悪い匂いを発します。
これは2chの特にスレ消費スピードの高い所でも見かけますが、その空気を見て「2chって気持ち悪い」とすべての2chを切り捨てる非ネットユーザーと変わりないと思うのですよ。

おいらが、割と発表時からゆっくり目にこの日記を書いてるのも、瞬発的にこういう類の記事を読んで書くと絶対影響される!のがあります。
特に最近では、ブクマコメするときは事前に他のコメントを絶対見ない、そういう制限を設けないとやっていけなくなり、少し息苦しいなと思う今日この頃です。

しかし、ネットを扱ってるとどうしても「早いレスポンス」を欲しがります。
おいらとて、ブログ書いたら2〜3日はコメントやブックマークないか気になって、ついつい仕事を忘れて見に行ってしまいます。
そして、そのレスポンスの結果が「ひどい」と思ったら大抵心が折れます。

炎上の件で梅田さんのミスがあるとしたら、「言葉の使い方が立場と合ってない」それだけな気がします。
(まあ、個人的にはtwitterの使い方の過渡期にハマった(テキトーなミニサロンから、テキトーなアウトプッターに変化し始めていた)のもありますが)

でも、特に自称「ネット強者」はちと考えてほしいんですよね。
本当に、その発言は自分の物かどうか、批判に足るレベルなのかどうか。と。

文章に宿る筆者の愛情に関して

tumblrに置いておくにはもったいない名文なので、こっちに転載。

さて、『摩利と新吾』に戻りますと、友情と恋愛は成立するか、というテーマに正面切って取り組みすぎていて、少しまじめすぎるかなあという感じはしません(特に篝が登場するあたりから)。"どじさま"も若かったんだなあ。また、何か共通の関心を媒介しない友情(例えば松本大洋『ピンポン』とか、ちばてつやあしたのジョー』などを参照ください)は描きにくいのかなと思いました。主人公と個性ある脇役たちとのやり取り(誰にも打ち明けられなかった辛い過去を新吾にだけは語れる麿)、あるいは脇役同士のエピソード(お互いの恋愛の苦しみを思いやり時には喧嘩もする星男と織笛など)の間に、より"友情"を感じました(本シリーズでは、主人公二人が、二人の間に立ちふさがった恋を余り意識せずにいられた頃の作品が私は好きでした。
(中略)
ともあれ、今後、本作品を意識せずに旧制高校ものを描くのは難しくなったのではないでしょうか。ちょうど山岸涼子(正確にはニスイのリョウコさんなのですが)の『日出処の天子』(白泉社文庫)により、今後聖徳太子を漫画の素材として取り上げることが作家にとって大きな挑戦になってしまったように(それでも池田理代子が果敢に挑戦してますね)。
摩利と新吾ーアマゾンレビュー(@サリエリ・tさん)
http://www.amazon.co.jp/review/R3GAWJLP78LBVS/ref=cm_cr_rdp_perm

この作品、個人的に好きなんですが、マイナーメジャー位の位置にあるため目立ったネタにならないのですが、初めて「アマゾンレビューってすげぇ」と思った一文です。
実は凄い失礼な話アマゾンレビューって「これ買ってあげてアピールの表現場」以上に価値を持ってなくて、悩んだときの参考意見以上の使い方をしてなかったのですね。
でも、世の中って広い物なのですね、ここを自分の批評のアウトプットの場として使ってる人がいるんだ、とこの文章まじまじと眺めていました。
こういう名文をログに残すために、この日記を続けてるんだ、久しぶりに痛感した、文章でした。
と、ほめてばかりで居るのもつまんないので、「アウトプット」に関して少し個人的見解を。
最近、やたら「アウトプット、アウトプット」ってビジネスの世界では騒がれていますけど、インプットの中身が貧弱だとアウトプットの内容もつまらない物だと思うんですよね。
最近、読書日記の行き場を探して複数サイトに登録して眺めてるのですが、少し思うのが「オタク」という人々の嗜好の均一化というか狭さ。今の漫画やアニメって、古典的な漫画を下敷きに再生産してる物が多すぎると思うのですが、それに無自覚なのか嗜好物だから消費したらお終い、と考えてるのか知らないけど、レビューが薄い気がします。
今の時代、本物の名作を書く人のアドバンテージってのは漫画の能力に加えて「本人しか書けない物」を抱えてないとオタク愛好の領域を超えないと思います。例えば、井上雄彦スラムダンクの「バスケットに対する愛情」(ちなみにオイラはバガボンドは漫画的には駄作と思ってます)、荒川弘鋼の錬金術師の「幼少期の北海道の農家体験」(これは「百姓貴族」って漫画になったけど単行本になってないのかな)、新海誠ほしのこえの「思春期の男の子の異性に対するメンタリティ描写の執着」(それゆえオイラ的には響かないんだけどね)、と個人的体験や執着を足さないと名作になり得ない、そう確信します。
昔の人は、色んな文献や別分野の表現物や絵とかを必死に取り込んで自分の作品に取り込んでいったんだけど、その取り込んだ漫画がもはや古典となってる今の世の中、それだけでは面白いものになりえない。情報でできた情報は所詮残らない、そういう時代になってきてると思います。漫画を古典にした漫画って、後々残らないんですよね…
数年後には、ブックオフに並んでる…文章と違って図書館には残らないからなあ…(除く国会図書館


まあ、とかく個人の体験や感情を盛り込んだ物は強いって話です。

沈黙のカナリアはかく語りき

ちなみに、おいらは東海圏にすんでるのでサイキッカーじゃないです。あ、昨日のCBCラジオによる謝罪発言は聞いたよw

 一番確実なのは、「北野誠の商品価値を上げる」「数字で具体的に評価を出す」ように行動することじゃないかな。北野誠の書籍をamazonで買うとか、今年の学園祭に彼を呼ぶように今のうちから松竹芸能に交渉するとか。そうすることによって、「ああ、やっぱり北野誠にはまだまだ商品価値があるんだ。このまま潰してはいけない」という判断が経営者・取締役レベルで生まれる。すると、彼の味方にしても、復活させやすい状況がつくれる。

 番組がなくなったり、好きな人が苦境に立たされたりしたら、誰だって心が苦しい。でもそんなとき必要なのは励ましだったり応援であって、「誰が悪い?」という犯人捜しじゃないんだよね。
 
岡田斗司夫のゼネラルプロダクツ/元気な北野誠が見たい!
http://okada.otaden.jp/e31993.html

北野誠と、20数年付き合ってきて、おそらくはこのあとの20数年も同じように付き合っていくだろう僕。そんな僕なのに、なんとも抽象的な言い方しか出来ないけれど、今は無心で前を見つめる時だと思う。書き込みとかで、二人は喧嘩しているのではとの意見もあるけど、仲良くやってます。食事に行ったり、電話で話したり……。一番気になるのは、やっぱりリスナーのこと。心配かけっぱなしですいません。いつか二人の声が、届けられたら。何回も言いますが、この世に下ネタがある限り喋り続けたい、声がなくなるまで……。
竹内義和のどきどきブログ/声がなくなるまで……
http://takeuchi2.otaden.jp/e31854.html

を買ってから、下記の本を読むと納得できるよ!…こういうことですか、岡田さん、わかりません!
(ちなみにうちのブログは無料なので、おいらにお金は入りません。はてなさんがよろこぶだけっす)

てなわけで、北野誠さんの無期謹慎処分の件がネットの世界でおそろしいことになってますが、一番怖いのは「TVマスコミが「言えません」以上の報道ができない」話があるってことですよね。「言えない」と言えるがそれ以上は「自らの口で言うと自分が危険な身に晒される」という「暗黙の答え」があることを「ほめのかす」ということ。
つまり、TVというのは自由な言論の場じゃあり得ないというわけ。その気になればフェイクな記事で隠すこともできるのに、嘘を織り込めないというのが怖いですよね。
つまり、この事情は関係者的にも、本来ならば、まこっちゃんに肩組みしたいという暗黙の「圧力勢力にたいする批判」でもあるわけ。そうしなければならないほど、いまのマスメディアってのは権威的権力がなかったりします。多分、個人的感覚では、独立出版社系週刊誌>>夕刊紙>>(タレントの色んな意味での利権が絡むのでげふん、げふんの壁)>>日刊紙>>>>>>>TVくらいとおもっていただくといいんじゃないかと。
で、そんな恐ろしい「組織」ってなんやねん、ということで、ネットでの「犯人捜し」が横行し、噂が噂をよびそのうち本当に「都市伝説」になるわけです。(やや強引)
てか、都市伝説と怪談の境界は「本当にあるのかもしれないけど、おそろしい他者や組織に関わるから真実にできない、あるいはそうした方が…かも」にあると思いますね。怪談は「生理的恐怖」を与える話ですが都市伝説は「社会的恐怖」を与える点で少し違うと思います。
戦争のない現代、何が怖いかって、社会的制裁(肉体的・精神的どっちでも)を食らうことです。社会からはずれたらお金なくて生活できないもんね。

何が真実なのか、はおいらレベルでは決めうちできないですが、真実を追うならネット上の情報だけで決めうちしちゃ駄目だよ、ってこと。丁度別の都市伝説追っかけて見つけた言葉に凄い名言があります。
「ネットだけで真実を知るのは無理」
これは、ネットの言葉の真偽を吟味を自分の中にセットして慎重に情報に接しろという、ブロガー的自分の心得だったりします。その上で、乗っかった方がいいのかそうでないかの判断をする。それくらいじゃないと、特定の人々の妄言に引っかかるよ、と内向的な自分に対する戒めでもあります。

割とWEBサイトで構築して作品公開はしんどい

■同人誌売ってる奴ってなんなの?
「みんなに読んで欲しい」
「表現の云々」
ってのが超うそ臭いんだよね。
だったらネットで公開すれば良いのに。
本の形で出したいんだ、とかいう奴もいるけど別にネットに公開した上で本も出せばいい話だろうに。
http://anond.hatelabo.jp/20090306040620

おいらの創作活動っていったら「大昔某ジャンルで本作ってやめてしまったが、とある事情で最近コミティア行って一次創作物をほぼ無料配布で10冊くらい配布して、どこでそれをwebで後悔しようか悩んでる」って程度のしょうもない同人活動です。Pixivの活動もほぼ死んでるし、どうにかしないとって感じですがw
「なんてめんどくさいこというんだ」、のと、「こいつ「とらのあな」とかで販売されてるような大手しか手に取ったことないな、マジでコミケを散策したことねぇだろ」、という印象もってスルーしてました。
「めんどくさい」というのはいくつか意味があって、

1)2次創作など著作権問題の発生しそうな作品の扱い
2)WEBで漫画を公開するには、さまざまな問題をクリアしないといけない(特にアダルト)
3)同人において「かかったコストを回収する」のは商売になってしまうのか

の3つ。
1)に関しては、漫画・アニメ・ゲームのメディアの場合、一次創作者の「好意的黙認」の下でかろうじて成り立っているのは事実。

作品の宣伝になるなどの理由で著作権者が二次創作物を法的手段で規制しようとせず、むしろ歓迎する姿勢を示すことが少なくない。このような「好意的黙認」は許諾と考えてよいとする同人活動者が多く、Wikipediaの「同人誌」の項目でも「事実上の許諾という側面もある。」と解説されている。ただし、「許諾の意思がない場合との識別が困難ではあるものの、」と前置きされているように、「認める」意思がなく単に「黙っている」に過ぎない場合とは、形式上識別することができない。
Wikipedia 二次創作物「許諾と「好意的黙認」」の項目参照

たしかに、同人誌市場を飯に営利目的に走るケースもあって、このあたりは元増田の意見もしかるべきかなあ、とは思う。これはどこまで、一次創作者たちがこの辺をどう考えてるかきっちり意見を表明しておいて、それに2次創作側は準拠したほうがいいのかな、とは思います。そこまで、2次創作関係者は作者の思惑以上に手を広げすぎた、そういう感覚は一応持っています。
3)は…「ならプロと認識されてないアマチュアバンドのコンサートは無料でなければならない」としたらどうよ?道端で歌ってるフォークのお兄ちゃんに10円払うのは趣味の範囲を超えるからだめって話になると思うがどうだろうか。
大体、ほとんどの人は、立ち読みして「この本ならお金払ってもいい」と表現に対する一種のおひねり感覚で本を買っていくわけで。
id:y_arimさんも煩悩是道場でのコメントで指摘してたけど「純粋な趣味」って強調しながら、「「みんなに読んで欲しい」「表現の云々」は嘘臭い」とダブスタな発言してる気がするんだよね。もし後者でみんないるなら、「純粋な趣味」自体存在不能なわけで。その辺おかしい。「純粋な趣味」っていったい何よ?その辺の定義がアマチュア表現=ボランティアって変な感じ。好きでやってるけど別にボランティアじゃないよなあ。評価してくれるならそれなりの声や対価はほしい口で。まあ、お金じゃなくて感想やお土産でもうれしいんですが。

で、本題の2)になるわけだけど、元増田がどの分野で創作してるのかは知らない。マジコンの2次創作問題にふれてたからもしかしてゲームなのかな?と推測するくらいしかない。どうでもいいけどね。
でも、正直言う。
割と漫画メディアとWebは結びにくい。
もし、ブログを更新する感覚で、漫画を更新できると思っていたら、増田は漫画というメディアをぜんぜん理解していない、おろかな消費者だと断言する。
紙媒体の漫画とWEBの漫画ってのはもう違うものと思っても間違いない。
漫画を実際に書いたものにはわかるかもしれないが漫画ってのは見開きで表現する世界である。つまり2pでひとつの表現構造である。
一方多分朝目新聞とかのパロディサイトをみればわかるがWeb漫画というのは1pでひとつのセクションで進められることが多い。一部の4コマ物を除きもう別物なのである。
そのストレスを解消するには、flash等をつかって2p合わせの構成を作り出すか、それが使える専用サイトを利用するしかない。
が、これも結構難儀で、特にアダルトだとサーバやサービスに制限があって、まず公開環境を作るのに手間かかるし、それ以上にさまざまな機器と本物のWEBデザイナークラスの知識、いや、場合によってはそれ以上のものを要求される。これは金銭的コストもそうだが、趣味でやるには勉強時間というか時間的コストがかかりすぎる。絵や物語以外の部分で勉強しなきゃいかんのはしんどい。理想のサイトを目指すには、もう「単なる絵描き」以上のことをやらんといかん。
ゲーム系で言語いじれる人でもCSSとかそういう部分で苦しむ話は聞きますがどうなんですかね。その辺。
あと、個人的に漫画をzipで保存→DLという配布って好きじゃない。p2pで配布してるような気持ち悪さがあるので。そういう消費の仕方で購読してるユーザーが真に漫画読んでくれてると信頼が置けないってのがありますね。たぶん、最後のページまで読んだらゴミ箱に捨てられるんだろう。みたいな気分で。

だから、わざわざ本を作って有明とか出かけるわけです。まだ「紙とペン」のほうがコスト低いって話です。
正直、ニコニコ動画や無料音楽変換ツール等で発表の敷居が下がった音楽創作界を指くわえてうらやましがってますよ。

あー、しんど。それでも、同人誌売っちゃだめ?