嘘と現実と夢と小説(電波は覚悟の上)

まあね、色々思う事のひとつに「だれが最初に小説を書いたか」(これもさ「文字を書くこと」を基準にすればいいのかを含めると相当にややこしい話になるんだけど)というのがあるんですが、その中で気になる位置にあるのが「私小説」。特に日本では私小説を書いた人間が今の世にも受けているし、日記文学(まあ、いまのblogもそうでしょうね)が確固たるジャンルとして成立している事考えると見逃すわけにはいかないんだよね。

しかし、嘘か、本当か、というのはそれが作品全体から受ける印象によって判断されるもの。ところが、作品そのものが「嘘」と判断されるには、やはり原因がある。その一番大きなところがミステイク、現実との不照応である。
この場合のミステイク、とは、もちろん、現実と照らし合わせて絶対ない、ということであるが、あと、人間の通常の動作作用に照らし合わせ筋道をつけて考えた場合、どうしてもそぐわない、つまり「辻褄があわない」ということも、含まれるかとも思う。このコーナーで取り上げたミステイクも、その範疇に入る。
作品を心の中で本物にしてしまう、つまり、作品の「面白さ」とは、ミスがない、という最低条件をクリアした上で、読者の記憶に留まらせてしまう「強さ」や技術が加味された時はじめて成されるものだ、ということなのだ。だから、ミスがあるなんて基本的なことは許されない。ミスが発見された瞬間、読者はその「夢」からさめてしまう。しらけてしまうのだ。だから、作り手は、それをなくす最低限の努力をする、義務があるのだ。  
THE DIGITAL WORLD of 氷の世界 1999/??/?? They were killed by "MISTAKES"!?
http://sakai.cool.ne.jp/kairou/mistakes8.htm

つまり、小説というのは現実と想像のズレを補完する記録集…みたいな考え方もあるわけ、ということをこのテキストで言っている訳。と、いうことは優れた小説家は精神的に完全なるシナリオを持っていて、それと現実のズレとを補正・調整しながら、出来るだけたくさんの人々に伝えようと(これは芸術家なら誰しもがもっている本能…みたいなものでしょう)努力している…てな、イメージが沸いてくる。これの理論を遡って適用すると宗教家=芸術家=小説家=…みたいなアウトロー路線まっしぐらな系図が見えてきます。嘘をつくことでかえって心の中で本物の感動を与えてしまうパラドックスな才能、それが小説家の「能力」なんでしょうね。
だから基本的にあっち側の人間である小説家にとって現実とのすり合わせ(具体的には取材とか資料集めとか)が苦痛なんだろうと思います。実際、一番辛かったのそこだもん、やってて。(やったことあるのか)
では、いったい誰が、どのような人物が最初に小説に書いたかというと…おい!!こら!!…なにをooo!!(ありがちな隔離シーン)

といいつつ、実は本気で考えt(略)