ネットがメインカルチャーになるまでの険しい道のり

そして、インターネットは弱者に厳しい。
PCの電源を入れる、IEを起動する、サイトに飛ぶ、記事を選ぶ、記事を読む。
辿り着くまでの道のりは長く、時間も労力も必要になる。
それは強者にとっては0に近いコストであっても、弱者にとっては気力のいる作業だ。
逆に、新聞は紙である手に取るだけで楽しめる。
弱者にとってもそのコストは0に近い。
真性引き篭もり 2005/5/30 新聞は弱者の娯楽。インターネットは強者の道具。
http://sinseihikikomori.bblog.jp/entry/189216/

強者弱者の問題はとりあえずおいといて(これを言い出すときりがないので)確かにインターネットというものはいまだ敷居の高いメディアなのは致し方ない。
まず、高いPCを買わない事(携帯電話という手段もあるがデータ量に問題がある)にはインターネットもなにも始まりやしない。そのへんテレビの浸透力というのは神業に等しい現象だったと思う。テレビだって電源入れて、チャンネルガチャガチャ言わせて…と当時の人にとってはインターネット以上のカルチャーショックだったであろう。それがいまはテレビの無いうちは殆ど無いというくらい当たり前の電気機器となってしまった。
そのへんまだインターネットというのはめんどくさい事この上ないのだが、このめんどくささが変な優越感を持ってしまうことの危うさをもってしまう気がするのはどうしてだろうか。めんどくさい事が出来るからといってそれが自分の実力ではないのに。なんか面白い記事を選べる、あるいは書けること自体に実力を求めてる人いるよな。問題はそれをどういう風にして読ませる事なんだが。本気でやろうとすると新聞記者以上に体力、持久力が必要になってきて嫌気がさしてしまう。
コンテンツ至上主義が最近、議論となっていたが、既存メディアを脅かすコンテンツがいまだ2ちゃんねるしかないというのはなぜなんだろうか。異論もあろうが今のところどのブログやサイトもこれを越えるものは出ていない。ある意味NEVER掲示板というものもあるけど、ちょっと問題がある(アレ見てて国境は人類滅亡までなくならないと確信したし、それはそれでいい気がする)。ほとんどのコンテンツは小レベルの馴れ合いという渦に巻き込まれて、縮小化している。ホリエモンが夢見ているであろうインターネットの権力化は馴れ合いの問題を突破しないとかなり厳しい気がする。
新聞が権力となったのは、新聞会社の親元がもともと反権力でそれを突破しようというエネルギーが半端なくあふれていて、読まれる層を多めに見積もって書いていたからである。今のコンテンツたちがそれを超えるかどうかは、私自身権力がどこにあるのかわからない(そこまで複雑化している)ので答えようが無い。

ただ、将来的にPCが皆のものとなって、殆どの人間が扱えるような規模にまでインターネットが達した時、この手の奴は簡単に淘汰される事は間違いないでしょう。

あれ、結局強者の話になってしまったじゃないか。こうなると残酷でつまんなくなるんだよな。