「生暖かい環境」の弊害

この本全体の主題となっているのは、権力というものがかつての古典的な管理社会のイメージから、環境的でみえないものに変わってきているということ。たとえばマクドナルドでは椅子を硬くして回転を早くしているとかいうような、誰も気づかないような管理の仕方ですね。携帯電話で買い物ができたり、アマゾンで買い物をしたらお勧めの本を教えてくれたりと、管理されることによって生活は便利になっているし、むしろ私たちは管理されたがっているんだけど、そこからは言葉にしにくい「何か」が失われているんじゃないかと。

サイコドクターあばれ旅 2003.5.1東浩紀大澤真幸の対談本『自由を考える』(NHKブックス)の感想)http://member.nifty.ne.jp/windyfield/diary0305a.html#01

 ずっと「優しい」という言葉に不信感を持っていたのだが、やっとその原因の一端が見えてきたような気がする。
 実は「優しい」の言葉の影で、自分たちの都合のいいように環境をコントロールしているのではないか、という疑念。となると、よく見られる「暖かい」環境というのは「生暖かい」という皮肉をこめた表現なのではないかという疑念。
そしてその裏には、なるべく摩擦をさけようとする小ずるい、思惑がある。

 感じなければ幸せなんだけど、思惑を感じてしまった時の怒りのやり場に困るという困惑。やっていることは正当なんだから。