洗脳の果て

その理由を一言で言うと、もはや男女の区別なしに「洗脳されること、管理されることは、はたして不幸なのか」という話になる。「自我」の放棄を引きかえにしたおかげで、義体たちは自らを「不幸」だと感じることがない。迷いや悩みもない。限りなく残酷な環境にいるはずなのに、義体たちの笑顔は、幸せそうに見える。「『自我』と『苦悩』をくらべたとき、いったいどちらを取るのが幸福なのか」「『自我』がないということは、当人が満足していても、不幸と呼べるのか」。この作品は、そうした疑問を読者につきつける。
ゾコラム 2005/10/29 「白痴でいること」は不幸なのか、それとも幸福なのか
http://d.hatena.ne.jp/zozo_mix/20051029#1130596046

これは漫画の作品に向けて書かれたものだけど、実は現実でもすでに「洗脳される事、管理される事」に慣れきってしまってる層があるのではないかという危惧がある。行き着いた洗脳、管理はある種快楽だ。なぜなら、行き着いた洗脳はもはや集団の統一状態であり、そのなかにいるのは一体感があって幸せだからだ。しかし、どこかでストッパーがかかるのだろう、あまりにもの統一状態になると一気に拡散状態になる。時代に流行り廃れがあるのもこのメカニズムがあるからである。つまり、ゾゾミさんの考えはまったく持って健全であり、バランスの取れた考えの持ち主だと思う。危険なのは、その管理に、その洗脳に、鈍感である層にあるとおもう。
白痴であるのは幸せだと思うが、実は真に不幸せなのである。

でも、この手の事、東浩紀岡田斗司夫がすでに言ってるんだよな。問題はそれをよしとしない言論界かな。内輪で盛り上がってどうすんだよ、本当に。