文章に宿る筆者の愛情に関して

tumblrに置いておくにはもったいない名文なので、こっちに転載。

さて、『摩利と新吾』に戻りますと、友情と恋愛は成立するか、というテーマに正面切って取り組みすぎていて、少しまじめすぎるかなあという感じはしません(特に篝が登場するあたりから)。"どじさま"も若かったんだなあ。また、何か共通の関心を媒介しない友情(例えば松本大洋『ピンポン』とか、ちばてつやあしたのジョー』などを参照ください)は描きにくいのかなと思いました。主人公と個性ある脇役たちとのやり取り(誰にも打ち明けられなかった辛い過去を新吾にだけは語れる麿)、あるいは脇役同士のエピソード(お互いの恋愛の苦しみを思いやり時には喧嘩もする星男と織笛など)の間に、より"友情"を感じました(本シリーズでは、主人公二人が、二人の間に立ちふさがった恋を余り意識せずにいられた頃の作品が私は好きでした。
(中略)
ともあれ、今後、本作品を意識せずに旧制高校ものを描くのは難しくなったのではないでしょうか。ちょうど山岸涼子(正確にはニスイのリョウコさんなのですが)の『日出処の天子』(白泉社文庫)により、今後聖徳太子を漫画の素材として取り上げることが作家にとって大きな挑戦になってしまったように(それでも池田理代子が果敢に挑戦してますね)。
摩利と新吾ーアマゾンレビュー(@サリエリ・tさん)
http://www.amazon.co.jp/review/R3GAWJLP78LBVS/ref=cm_cr_rdp_perm

この作品、個人的に好きなんですが、マイナーメジャー位の位置にあるため目立ったネタにならないのですが、初めて「アマゾンレビューってすげぇ」と思った一文です。
実は凄い失礼な話アマゾンレビューって「これ買ってあげてアピールの表現場」以上に価値を持ってなくて、悩んだときの参考意見以上の使い方をしてなかったのですね。
でも、世の中って広い物なのですね、ここを自分の批評のアウトプットの場として使ってる人がいるんだ、とこの文章まじまじと眺めていました。
こういう名文をログに残すために、この日記を続けてるんだ、久しぶりに痛感した、文章でした。
と、ほめてばかりで居るのもつまんないので、「アウトプット」に関して少し個人的見解を。
最近、やたら「アウトプット、アウトプット」ってビジネスの世界では騒がれていますけど、インプットの中身が貧弱だとアウトプットの内容もつまらない物だと思うんですよね。
最近、読書日記の行き場を探して複数サイトに登録して眺めてるのですが、少し思うのが「オタク」という人々の嗜好の均一化というか狭さ。今の漫画やアニメって、古典的な漫画を下敷きに再生産してる物が多すぎると思うのですが、それに無自覚なのか嗜好物だから消費したらお終い、と考えてるのか知らないけど、レビューが薄い気がします。
今の時代、本物の名作を書く人のアドバンテージってのは漫画の能力に加えて「本人しか書けない物」を抱えてないとオタク愛好の領域を超えないと思います。例えば、井上雄彦スラムダンクの「バスケットに対する愛情」(ちなみにオイラはバガボンドは漫画的には駄作と思ってます)、荒川弘鋼の錬金術師の「幼少期の北海道の農家体験」(これは「百姓貴族」って漫画になったけど単行本になってないのかな)、新海誠ほしのこえの「思春期の男の子の異性に対するメンタリティ描写の執着」(それゆえオイラ的には響かないんだけどね)、と個人的体験や執着を足さないと名作になり得ない、そう確信します。
昔の人は、色んな文献や別分野の表現物や絵とかを必死に取り込んで自分の作品に取り込んでいったんだけど、その取り込んだ漫画がもはや古典となってる今の世の中、それだけでは面白いものになりえない。情報でできた情報は所詮残らない、そういう時代になってきてると思います。漫画を古典にした漫画って、後々残らないんですよね…
数年後には、ブックオフに並んでる…文章と違って図書館には残らないからなあ…(除く国会図書館


まあ、とかく個人の体験や感情を盛り込んだ物は強いって話です。